「結婚」は「苦痛」の対義語か?

233px-fukushima_i_nuclear_accidents_diagramsvg東京電力が賠償対象であった女性に対し複数の案件で「結婚を理由に生活基盤が整い、精神的苦痛も和らいだ」として賠償を打ち切った例があるそうです。

記事を読んだところ、避難指示区域から長期避難を余儀なくされた人を対象に、原則月額10万円と規定され、「帰宅が可能になる時点」まで支払うということなんですが、事故の収束が見えないため「具体的に示すのは困難」という見解を出しているそうです。

これに対し女性側は「結婚で精神的苦痛はなくならない」、また女性の母親は「賠償が欲しければ女は結婚するなということですか」と憤っているそうです。

自分の住んでいた地域を強制的に、また自主的といえど命を守るための当然の避難として住んできた地域を追われる苦しみは相当なものだと思います。

とくに強制避難を強いられた方は満足な準備もできないまま、着の身着のままで出られた方も多く、その後何度か帰宅が許されたそうですが、放射能汚染にさらされた物品を持ち運ぶのには相当な選別が必要だったと思われます。

今でも仮設住宅で暮らされている方の「月額10万円」という試算も、常識であればなかなか「試算」というのも難しいほどの計算なのかもしれません。

女性の言うように、たしかに「結婚によって苦痛はやわらげられない」というのは確かだと思います。

苦痛」の対義語が「結婚」ではないのは明らかであり、その「苦痛の原因」が「結婚」とはかけ離れた所にあるからです。

しかし「帰宅が可能になるまで」の保障というのはかなり難しいのではないか?という事も思います。

正直な話、帰宅できる状態には冷静に考えてもウン十年のスパンですし、そこで帰宅できたとしてもずっとメンテナンスされていない自宅がそのまま入居できるとは考えられません。

もちろん自宅の建て替えも必要でしょうし、そうなると自分の慣れ親しんだ街の風景も変わっているところに「昔の面影」を見ることが可能であるでしょうか?

そう考えると、もし「帰宅が可能な時期」を明言され帰宅をする方がどれくらいいるのか

なかなかその数は少ないのではないかと思われます。

そうなると、「帰宅が可能になるまで」という東電や政治家の文言と言うのは果たして適当なものであるのか

東電や政治家は本当に「いずれは帰宅が可能」と思っているのでしょうか?

こういった議論ですらタブー視されているのも腑に落ちないのですが、やはり

  1. もう福島原発周辺住民は自宅には帰る事が出来ない事を明言する
  2. それまでの家や土地の資産価値を算定し、保証する
  3. 事故前の家庭の収入を査定し、それ同等額の収入が受けられる為に国を挙げて震災避難者に対しての職のあっせんを計る
  4. 職の見つからない間はその期間の、また職が見つかれど事故前の収入から著しい下落がある場合の家庭には補助金交付
  5. 強制避難を強いた事に対しての慰謝料の交付

などが考えられます。

例えば地域によっては「強制避難」の地域と「自主避難」の地域に別れ、「自主避難地域」はこういった保証が受けられない、また「自主避難地域はどこまでが当たるのか?」などの様々な不公平感が蔓延しますが、こういう事について「公平にしよう」という政治家の方が戯言を言っているのであって、決して「公平な判断」というのが存在する訳はありません

現状の政治家は「とりあえず、ここは公平穏便に事を運び、やがて世論の注目の下落を待つ」というのを望んでいるようにしか思えません。

こういった「心の苦痛」を数値化する事は東電であれ、政治家であれ難しいと思います。

また女性にとっても、心の苦痛は「月額10万円である」という試算は、「そんな金額などでは計れない」というのが当然だと思います。

しかしそれを決断、施行するのは政治家しかできないものでもあります。

こういう問題は常套手段「棚上げ理論」では解決しない問題です。