昨日、2020年東京オリンピックのエンブレムがデザイナー佐野研二郎氏の取り下げによって、今後仕様がかかる事になりました。
今回の決定について、大きな波を作ったのは「インターネット上での指摘」
今日のニュースでは「ネットの指摘は悪か?」という論調もありました。
「過度なネット上での指摘が、この結果につながった」というところから出てきた論調ですが、個人的には「盗作をしたのであれば、インターネット社会である現在では叩かれるのもやむを得ない」と思います。
では「盗作したのか、どうか?」という事ですが、先日のサントリーのトートバッグの件で「トレース」という言葉で濁しましたが、盗用を認めたこともあり、「あれは盗用だけど、これは違う」というのはなかなか受け入れがたい主張になってしまいます。
熱を帯びる、佐野氏の過去のデザインに対する「暴き」と、それに沿う形で行われる「佐野叩き」
「佐野叩き」という個人的中傷には、いかんせん同情すべきところもありますが「暴き」に関しては、この流れの中ではしょうがない流れでもあります。
「デザイナー」という職業が、一種の「アーティスト」であれば、私の知る色々な業界で活躍する「アーティスト」と呼ばれる方々の多くは「模倣を極端に好まない」という風潮があります。
逆にそれはアーティスト特有の「強いエゴ」と言えるほどのものです。
「似せて作ってくれ」と依頼しても、どこかで「自分の色」を出そうとしてきます。
今回の東京オリンピックエンブレム問題では「似てるデザインができるのは、致し方ない事」という評論家もいますが、本当のアーティストは似てるデザインであれど、もし「似てる」なんて事を言われたら「とんでもない憤慨」をする強い個性を持つ人ばかりです。
「オリジナリティ」と「リスペクトの上でのオマージュ」は大きな違いがあります。
芸術の世界に入り、いきなり「オリジナリティ」を発揮する人はほとんどいないと考えています。
まれに、そのような天才もいらっしゃいますが。
多くの人は、尊敬する人や憧れの人を何度も何度もコピーをすることから始め、そこからコピーに飽き足らず、段々とオリジナリティを発揮していくものです。
音楽界の巨人作曲家、ジョンレノンとポールマッカートニーというコンビがいます。
後々にそれぞれ「イマジン」と「レットイットビー」を作曲する2人ですが、この「音楽界の大天才」であれど、いきなり最初から素晴らしい作曲家だったわけではありません。
2人の「生涯初めて完成させた曲」というのを知っていますが、それはもう「さんざんたるもの」であり、「先人の模倣の域を超えない単調なもの」でした。
しかし彼ら二人は、自分のリスペクトするミュージシャンの曲を何度も何度もコピーし、研究する事で「曲作り」というのを覚えていきました。
だんだんと「曲作り」というのに慣れてくるにしたがって、「曲作り」というのが難しいものでなくなり、そうなると曲の中にオリジナリティーを出そうとしてきますし、またごく自然に出てきてしまいます。
やがてそれが洗練され、強烈なオリジナリティーを産み、またそのオリジナリティーと大衆の欲するものとが合致して後世にも影響を与える作曲家になりました。
これはあくまで個人的な意見ですが、佐野氏のデザインをいくつか拝見しましたが「佐野氏のデザイン」に統一感がありません。
あのジョンレノンであれポールマッカートニーであれ、ガウディであれピカソであれガリレオであれ、何かを生み出す人は何かしらの「色」を持っています。
おそらく彼の本来のデザインは「日光江戸村のニャンまげ」や「TBSの豚キャラ」のようなアニメ調のものでしょう。
今回の東京オリンピックエンブレムなどの抽象的な物や幾何学的な物は、彼の本来のデザインからかけ離れたものであり、こういった異なったデザインが次から次に出てくるなんていう大天才の存在は、少し考えづらいところでもあります。
そういったところも、今回の指摘に繋がっているところでしょう。
世界に発信する「オリンピック」という舞台で、日本は「国立競技場問題」といい、世界に大きな恥と信用失墜をさらしてしまいました。
大変残念な結果ですが、やはり「国立競技場問題」と同様に「選考過程」にかなり「内輪的な力」が働いたようにしか思えません。
失墜した信用を取り戻すのは難しいことですが、今後は「フェア」に物事が運ばれることを望みたいと思います。