歴代徳川将軍の歴史を調べています。

 

 

最近、昔に比べ「歴史」に興味が出て、様々な事柄を調べています。

まず手始めに「江戸将軍家」からです。

やはり江戸幕府で有名なのが

  • 開祖 初代:家康
  • 鎖国や参勤交代 三代:家光
  • 生類憐みの令 五代:綱吉
  • 暴れん坊将軍 八代:吉宗
  • 最後の将軍 十五代:慶喜

全15人いる将軍の中で、この5人あたりを押さえておけば、受験関係では問題ないと思いますが、気になるのは上記5人以外の将軍。

調べるとなかなか個性のある顔ぶれです。

  • 二代 秀忠 26歳から将軍を務め、戦国武将らしくそれなりに筋骨隆々だったらしい。
  • 四代 家綱 家光の長男。わずか10歳で将軍宣下。温厚な人物だが身体が弱かったようでわずか40歳で早世。
    世継ぎに恵まれず、将軍職は弟の綱吉へ。
  • 六代 家宣 先代・綱吉も世継ぎが居なかったために、綱吉の弟の子(いわゆる甥っ子)。しかし綱吉との仲は良かったとはいいがたい。
  • 七代 家継 先代・家宣も子宝に恵まれず、わずか4歳で将軍宣下。8歳で早世。現代の9~10歳の平均身長である135cmほどの身長があったと言われ、「巨人症」との説もある。
  • 九代 家重 吉宗の長男。脳性麻痺だったとも言われるが、徳川将軍随一の美男子とも言われる。
  • 十代 家治 父・家重が言語不明瞭などあったことと幼少の聡明さから祖父・吉宗から一身の期待を受けて育てられたが、将軍宣下以降は将棋などの趣味に没頭。跡継ぎに長男「家基」がいたが、将軍就任前に死去。次代・家斉の父・徳川治斉(一橋家)が息子を将軍職に就けるために「家基」を毒殺したという説も。
  • 十一代 家斉 14歳で将軍宣下。徳川将軍のみならず歴代征夷大将軍最長の50年の治世。16人の妻妾、53人の子は歴代最多。将軍として栄華を極める。
  • 十二代 家慶 父・家斉が権力を保持していた為、44歳にてようやく将軍宣下。ペリーが浦賀に来航したのは家慶死去の数か月前。
  • 十三代 家定 生来病弱で一説には「脳性麻痺」だった可能性も。天璋院篤姫は3人目の正室。跡継ぎはなく、後継問題が発生。
  • 十四代 家茂 12歳で将軍宣下。幕末の時代に振り回された不運の将軍。大の甘党だったらしく残存する31本の歯の内30本が虫歯との説も。20歳で早世。正室・和宮の墓改装時に墓の中から1枚の写真が発見され、写真の残っていない家茂の写真家と推測されたが、湿板写真だったため、発見の翌日に検証しようとしたところ、日光のためか画像は失われてしまった。発掘した歴史学者によると写真の男性は「長袴の直垂に烏帽子をかぶった若い男性」で「豊頬でまだ童顔を残していた」との事。

とりあえず、あまり歴史の表舞台に立たない「徳川歴代将軍」の簡略なプロフィールを記載しました。

これを見ると側室制度はあれど、かなりお世継ぎに関して苦労していたようです。

側室制度のない現代の皇室で、同様に「お世継ぎ問題」が発生しているのも、よっぽど当然な事だと思われます。

 

2代・秀忠以降、将軍家に誕生し将軍を見こされる世継ぎは慣例的に「家」という一字を賜るようです。

将軍の実子ではなく、他家から養子で将軍家に来た場合も、将軍になる前に「家」を付けた名前に「改名」されるようです。

名前に「家」が付かない5代・綱吉、8代・吉宗、15代・慶喜が、「予定外に将軍宣下された」という事が分かります。

 

徳川家康誕生の地、愛知県岡崎市の徳川家菩提寺「大樹寺」には、歴代将軍全員の位牌があり、それぞれ将軍の臨終時の身長と同じという説があるようです。

15代慶喜に限り、「将軍を離れた後も存命だったこと」「将軍を離れた後も、自らを赦免し爵位まで与えた明治天皇に対する恩義から神式にて葬儀が行われたこと」を鑑みて「位牌」がないとの事です。

昭和33年ごろに、歴代徳川家墓所にあたる増上寺で、墓所の改装があった際、埋葬された歴代将軍の骨が発掘され、その骨の様子から各将軍の様子が「骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと」という本にまとめられているそうです。

その本によると2代・秀忠の頃は戦国武将らしく骨格や筋肉が発達していたものの、6代・家宣以降は骨格も貧弱になり初め、12代・家慶や14代・家茂に至っては顔が面長になっており、上流階級としてほとんど咀嚼しなくてもよい柔らかい食事をとっていたらしく、公家のような骨格だったようです。

歴史というのは、「見えない未来」と違って様々な文献や物証が残っており、研究が進むにつれより明確に見えてきます。

徳川家の歴史だけでこれだけ面白いのですから、様々な歴史を調べるのに夢中になってしまいます。